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今回お話を伺ったのは新潟県南魚沼市六日町でセレクトショップ「ADOOM」を運営し、DJ・デザイナーとして活動しつつ米作りも行っている3268(さんにいろくはち)氏。現在の南魚沼にはストリートカルチャーがルーツにあるSHOPが数多くあるが、その先駆けとして2004年にオープンしたのが「ADOOM」だ。ローカルに根差したカルチャーが生まれ続けるこの地の、パイオニアとも呼べる存在である3268氏に、お店を立ち上げた経緯やデザインのこと。米作りのこと。この街のことを聞いてきた。
双眼鏡で山の安全を確認する3268氏。
―早速ですが、デザインを始めたきっかけからお聞きしたいです。
3268:はじめは、遊びでステンシルをやっていたから、それを何かにプリントできないかな?と思ったのがきっかけかな。デザインをしようってよりかは、遊びの延長にデザインがあったって感じかな。友達とやっていた音楽イベントのTシャツを作ったり。それを繰り返す中で、お店を立ち上げたい気持ちもあったし、もうちょっとちゃんとプリントできないかなー、と。そこでデザインって何だろう?と思ったのがきっかけです。
―デザインを意識し始めてからお店を出すに至った経緯を教えてください。
3268:もともと、お店はずっと持ちたいと思ってたんだよね。あとはどのタイミングでやるかだけって感じで。そのきっかけになったのが、さっき話したTシャツとかのプリントをもっとクオリティ高くしないなーって思ったことかな。その後2004年にADOOMを立ち上げたました。
3268氏が手がけるTシャツレーベル「SIXSENCE」
―お店をやる前は何をやられていたんですか?
3268:東京のファッションの専門学校を卒業して、東京にあるアパレル量販店で働いてたんだけど、こういうんじゃないんだよなーって思って半年くらいで辞めたんだよね。ちょうどそのタイミングで、「プログレス」(南魚沼市にあるセレクトショップ)で働かないか? って誘われて南魚沼に戻ってきたのよ。
で、プログレスが長岡店を出すのがきっかけであっちまで通うことになってさ。ちょうどその頃、長岡にクラブができて、そこでDJ OLDFASHION、DJ KAZZMATAZZとかと仲良くなって一緒にイベントやったりしてたんだよね。その流れで3年くらい長岡に住んでた。
店内にはDJブースも。ADOOMオリジナルのスリップマットがクール。
―ADOOMを開こうと思った時に今のようなスタイルを目指していたんですか?
3268:最初は何も考えてなくて、ただ漠然とやりたいなあ、と思ってたくらいなんだけど、長岡に住んでいた頃の仲間にアメリカへ買い付けに行ってる奴がいて、そいつにくっついてNYに行った時に『こういう感じ良いかも』。と思ったのが今のスタイルの入り口かな。20代も後半だったし、そろそろ何かやらないとなーと思ってて、それがちょうど28歳の時だね。
―デザインで影響を受けたアーティストはいますか?
3268:やっぱり、レコードのジャケットとかかなー。ジャンルとしてはやっぱりHIP-HOP。アーティストというよりかはジャンル全体から受けた影響が大きいのかも。ちょうど、専門学校に行ってた頃が1990年代後半で、レコード全盛期でターンテーブル買った事でレコード収集にはまっていくという(笑)。その時の同級生がDJやってたのと、元々興味を持っていた事もあって、レコード文化にのめり込んでいったんだよね。当時の東京生活ではDJの文化に影響を受けまくって、学校で得たものはほぼ皆無(笑) そんな、90年代の渋谷から受けた影響も大きいのかな。
―90年代っていうとめっちゃいい頃ですね。
3268:ちょうどシスコがあった頃だよね。シスコで人間発電所知ったくらいだよ(笑) 日本語ラップ全盛期だったし。「YOU THE ROCK☆」とか、「TWIGY」、「MURO」、「SHAKKAZOMBIE」、もうすごい時代だよね。さんピンCAMPは行けなかったんだけど、当時のVHS(時代感!)はテープが擦り切れるほど見た。地元の仲間と一緒にB-BOY PARKとかもよく行ってたね。今では良い思い出だけど、レコード掘りに行って、めっちゃ外してたなー。あの頃は今と比べて情報が多くなくて、レコ屋で掘るか、通販カタログのコメント読んで買うとか(笑)
―本当のジャケ買いですね(笑)少し話しは飛びますが、本業の傍らお米も作っていると聞きました。
3268:うん。基本は自分の家で食べる分と、自主流通用に作ってる感じかな。俵数で70俵とか。お米を買ってくれてるのは親父の代から付き合いがある人が多いと思う。この先どうなるかわからないけど、作るのはさ、自給自足できた方がいいよなーって思って親父の手伝いから。ちょいちょいやりつつ、作業はまだ半分くらいしか覚えてないけど。米作りのメインとなる田植え、稲刈り、草刈り、調整とかはできるけど、水の量や肥料の分量とかはまだまだかな。そのあたりの技術を少しずつ習って、いずれは自分が引き継いで切ればなーと思ってるよ。もともと親父も仕事しながらやってたし、俺も今の仕事をしながら米作りを続けていくと思うよ。この辺の人は結構そういう人多いよね。会社勤めしながらお米作ったり。
―なるほど。仕事終わりにスケートパークとかもよく行ってますよね。
3268:4年前かな? できたんだよね。スノーボードは元々やってたんだけど、スケートはオーリーで挫折したクチ(苦笑)だけど、コンクリートパークでクルージングして衝撃受けちゃった。あの踏むだけで進む感じ? めっちゃ面白いんだよね。革命だったなー。この辺の若い子とか同世代でもハマる人続出。ほんと、良い遊び場が出来たよね。
南魚沼スケートパーク(通称sixpark)
―スケートパーク含めて、南魚沼の良いところを教えてください。
3268:ヨコノリの環境が整ってることかな。雪さえ降ればスキー場も沢山あるし、スケボーもできるしさ。最近ではパークができたことで、若い子との接点も増えてて、色々な年代と繋がれるのが面白い。イベントやお店にも遊び来てくれたりし、そういう意味でもヨコノリはこの街に根付いているし、良いところだよね。あとはただ単純に景色が良いことかな。家の近くに溜池があって、そこから見る八海山がめっちゃ綺麗なんだよね。トミオカホワイト美術館の近くの。そういう場所がすぐそばにあるのも好き。
―今後やりたいことなどはありますか?
3268:作品展はやってみたいと思ってるよ。時期は決めていないけど、やるとしたらまずは地元からかな。コロナウイルスの影響が落ち着いて、タイミングがあれば東京とかでもやってみたいと思ってる。ここ2年くらい、とくに自分で描くのが面白くなってきたし。
ADOOMで個展をやってくれた、「レイジロウ君」っていう「NEW TOKYO POST」っていうイケてる新聞を作ってる友達がいるんだけど、もともと絵で食っていってる人でさ。その人の影響もあって、自分で描くのが面白くなってきたのもあるかな。あと、DJはずっとやってくだろうなー。やっぱりイベントに呼んでもらって違う街に行ったりすることで色々刺激も受けるし、お店の宣伝にもなるしね。家族もいるから、DJやってなかったら他所の土地に行くこともなかなかできないしね。だからこそDJはずっと続けていくと思うよ。
2018年8月にADOOMで開催されたレイジロウ 氏(@ragelow)のアートエキシビジョンの様子。 トンネルをモチーフにしたゲートが印象的だ。
―今後、南魚沼市がこうなったら良い、と思うことはありますか?
3268:ま~、もう少しヨコノリやストリートカルチャーに寛容な街になったらなーと思う。「スケートはパークが出来たからパークだけでやれ」とか。実際に言う人も結構いたりする訳で。まあ、文化と世代のギャップもあるけど、もう少し理解してもらえると嬉しいかな。
あとは、雪がずっと振り続けて欲しい。去年はほんと少なかったよね。ここ5、6年くらいはパウダーランにハマっちゃってるんだけど、サイドカントリーにすら入れなかったし。やっぱりスノーボードは楽しいし、雪はこの街にはなくてはならない物だよね。
―最後に3268さんにとってデザインとはなんですか?
3268:仕事でもあるし、夢中になれるもの? なんだろうね、あんまり上手く言えないけど。良いデザインができた時の達成感というか、作ってるときに感じる「お、これ良いんじゃん?」みたいな感覚? それが好きで続けてるのかな。だから、きっと遊びの延長なんだと思うよ。
ADOOM
新潟県は南魚沼市、六日町にあるセレクトショップ。日々の興味や遊びの中から生まれるアイデアをプリントで落とし込んだオリジナルウェアを中心に雑貨・音楽・キッズ等も取り揃えている 。加えて人生の営みの中で次々と巡り会う 豊かな才人達が手がける希少な制作物の販売等。ウェブでなんでも手に入ってしまう世の中だからこそ、こだわりのある手づくりの少量生産品や現場でしか伝わらない”刺激のある事”の発信を目指しながら営業中
SHOP12:00~19:00(短縮営業中) 木曜定休日
新潟県南魚沼市六日町91-6 1F
MAIL:adoompom@gmail.com
TEL:025-770-0487
BLOG:http://adoomsixcity.blogspot.jp/
INSTAGRAM:https://www.instagram.com/adoompom
3268
95年にDJを始めて以来、様々なパーティーでプレイ。 HIPHOP,BREAKBEATS,REGGAE,CHILLOUT,をベースにジャンルを横断しながら新しい価値観を模索中。40過ぎから始めたスケートにハマりつつ、山と雲を傍に日々マイペースに過ごしている。
なぜ南魚沼産コシヒカリは日本一と呼ばれているのでしょうか。それを探る前にまずは美味しいお米に育つ条件をお伝えします。重要な要素は、気候・日照・土・水です。穂が出始める8月中旬から収穫を迎える9月中旬、この1ヶ月間に朝晩の寒暖差が大きいこと、晴天で日照時間が長いこと、水捌けの良い土、ミネラル豊富な水が使えることになります。
稲は熱帯の植物で高温を好みますが、気温が高すぎると美味しいお米に育ちません。日中の気温が35℃以上になると光合成ができず、お米の旨味であるデンプンを作れなくなります。真夏など夜も気温が下がらない日が続くと、稲が本来蓄えるべきデンプンを使い切ってしまい、粘りが弱く、旨味の少ないお米になってしまうのです。そのため、日照時間と昼夜の寒暖差が大きいこと、この2つが非常に重要です。稲が昼間、光合成よって作ったデンプンは、夜間の気温が低いほど、代謝が抑えられて蓄えられます。盆地や山間部に美味しいお米の産地が多いのも寒暖差が大きいからだと言われています。
水はけが良い土であることも大切です。田は水が溜まっているのではなく、用水路を流れる川の水で潤っています。新鮮な水が流れ込み、土へと浸透していくのと同時に常に新しい酸素が供給されることで、健康な稲に育ちます。水はけが悪い土だと古い水が残り、稲の発育が悪くなります。水はけの良い土で、水を豊富に使って栽培することが良質なお米を育てるために大切なのです。また、美味しいお米にはミネラルも重要とされています。雪解け水が山々に浸透し、ふたたび湧き出る事で山々のミネラルを豊富に含んだ水となります。そういった水に恵まれた地域に美味しい米どころが多く存在しています。
米どころ新潟県魚沼地方の中でも特に美味しいとされる南魚沼地域は、西を1000メートル級の魚沼丘陵、東を2000メートル級の越後山脈と、山に囲まれた盆地地形である事から、昼と夜の気温差が非常に大きく、美味しいお米に育つための条件の整った地形です。
南魚沼の土壌は市内を流れる魚野川や登川などの河川によって運搬された比較的新しい土で形成されていて、他の地域の水田に比べ稲に必要な窒素供給力が小さく、やや痩せた土地です。一般的に栄養素豊富な土壌が良いと思われがちですが、稲が大きく育ち、倒れやすいコシヒカリにとって、痩せた土地は生育過剰を抑制してくれる良さがあります。
また、南魚沼は日本有数の豪雪地帯であり、八海山や巻機山をはじめとした周囲の山々の雪解け水が豊富です。加えて、市内には八海醸造、青木酒造、高千代酒造と3つの酒蔵があります。米作り同様に酒造りにも水が重要とされ、それぞれが世界的に高評価されている事からも南魚沼の雪解け水が上質であることが分かります。その水が田んぼを潤し、美味しいお米に育つ栄養を与えているのです。
そして南魚沼の中でも、特に美味しいお米が作られると伝えられているのが、旧塩沢地区です。旧塩沢産コシヒカリは日本で流通するお米の0.1%とも言われ、希少なお米です。南魚沼市を拠点とするソイルワークスでは、旧塩沢町の農家から直接お米を仕入れお届けしていきます。
お米の美味しさを決定付けるのは、自然環境だけでありません。条件の整った土地は全国にいくつもありますし、南魚沼より米作りに適した土地もあるかもしれません。その中でも「南魚沼のお米は美味しい」と言える大きな理由は生産者の米作りに対する想いと、受け継がれる米作りの伝統です。
昔の南魚沼は日本で最も貧しい農村地域の一つでした。田んぼには石がゴロゴロあり、痩せた田んぼが非常に多かったと言われています。冷たい雪解け水が流れる春先の田植えは大変な作業だったと語り継がれています。当時は、稲の品種もコシヒカリとは違うもので、収穫量が少なく味も悪い、“雀が跨いで通るほどまずいお米”と呼ばれていました。そんな貧しい南魚沼でしたが、苦しい環境から抜け出し「豊かになりたい」という強い想いで、旧塩沢町の若手農家と新潟県の農業試験場が手を取り合い、魚沼の風土に合ったお米の研究を続けた末に、「コシヒカリ」という品種を産み出したのです。その血が滲むような努力の積み重ねこそが、南魚沼産コシヒカリが日本一美味しいと呼ばれるまでに成長したきっかけです。
そういった米作りの歴史があるからこそ、この地の農家は米作りに情熱を持って日々の土づくりや栽培技術の向上に努めています。お米の美味しさは自然環境に左右されますが、結局は人の手で植えられ、人の手で収穫され、人の手で消費者まで届きます。「環境が人を育てる」とよく言いますが、南魚沼の風土が生産者達の誇りと情熱を育むことで、お米が美味しく育つという循環が生まれているのです。